きつつきの宿

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少年の故郷


その世界は蜃気楼のように消えてしまったけれど、それがあった土地(空間)は、それだけの大きさをもたまま、まだそこにある。

その時代そこにあった世界は、そこを去った後、少しずつ形を変えていった。
建物は古び、取り壊され、更地になった。
新しい道路ができ、たんぼや畑は宅地になり、新しい建物ができ、
元の世界は少しずつ、あるいは一挙に姿を変えていった。
半世紀も経てば、かつての世界の輪郭は、
まだ残っているだろう山や川から想像するしかないのだろう。

そこに行ってみたい気持ちはある。
知っている人々はほとんどいなくなってしまったが、山や川は生きていて、
命をつなぎながら、まだそこにあるだろうからだ。

でも行かないほうがいい気もする。
そこに行って、昔の世界が本当になくなってしまったことを肉眼で見ると、
記憶の中からもスッと消えてしまい、思い出すことさえ難しくなるのでははないか。
いろんな神話やおとぎ話が、それに似た寓話を語っている。
だから、「遠くにありて」のままにしておいて、
あたかも「そこ」にあるかのようにしておいた方がいい気もする。

そのように私たちが生きる世界は、その時代・その年代・その時間という、
特定の1回限りの時間のフィルムにぴったりとはめ込まれている。
ハイデッガーが書いた『存在と時間』という話は、そういうことだったのか。)
そのフィルムは一度まわして見たら終しまいで、巻戻しはできず、
あとは記憶の中にしか存在しない。

でもその世界があった場所、
そのフィルムが映されたその場所は、いまでもそのまま「そこ」にある。
「世界」は空間と時間、生命と土地によって織りなされるタピストリーである。

山陰地方の田舎町のはずれ。
数件の家族が住む一角とクローバーの空き地。
周囲の畑地や田んぼと小川、その向こうの低い山並み。
そこはまるでメルヘンの世界のようだった。
半世紀以上が過ぎても、目を閉じれば今でもその世界がよみがえり、
路地や建物や畑の中を歩いていくことができる。

〔続く〕