〔ギターノート 1〕
はじめに
クラシックギターが趣味で、ただ弾いて楽しんでいる。教室にも行かず、好きな時に好きな曲を弾いて、飽きたら次の曲にを繰り返し、ぐるぐる回っている。自由気ままが好きで、人前で演奏するのも苦手だ。(だからほとんど進歩しない。)
もう少し外に出て、人とも接触したいなあと思い始めたころ、新型コロナで世界が一変してしまった。コンサートや旅行に行けなくなったのは残念だが、閉じこもりの生活はあまり苦ではない。この機会に、ただ弾くだけだったギターについて、エッセイも書いていくことにした。
音楽は、歌い、弾き、聴くことで完結し、それが終われば消えてしまう。音が鳴っている、その間だけ存在する。音は目に見えず、触れることもできず、空気の振動でしかない。そのような儚い素材でできているのに、そこには目くるめく豊かな世界が繰り広げられる。音と音楽はまるで霊や魂のようであり、その存在の仕方は「生命(いのち・anima)」そのものを表しているように思えてくる。
そこに「言葉」でもう一度別の形を与えていくことで、その世界は二重に豊かになる気がする(すぐ別の曲を渡り歩くので、その自戒もかねて)。
〔何年か前のメモから二つ。〕
ギター再開と小林隆平さんのこと〔2017年5月〕
趣味のクラシック・ギターを再開した。
何十年ぶりかにギターケースを開けたきっかけは、小林隆平さんの『中南米ギター名曲の旅① 』という楽譜だ。それまでとはちょっと違う系統のものをと、ネットで注文して手に入れたのだが、付属の CD を病中の枕もとで聞き、感動した。選曲と編曲もいいが、演奏がいい。中南米の大地、空と山、夕暮れや風、たくましく素朴な人々の顔。それらの風景が、小林さんの朴訥だが丁寧な演奏とともに、万華鏡のように広がってくる。これが音楽の力なのだと思い、意欲がわいてきた。
小林さんは70年代に南米に渡り、エクアドルでギターの先生をしておられるとのこと。この演奏と本で、このひとが選んだ生き方が分かる気がして、忘れていた自分の青春時代のひとつの夢と重なった。地中海か南米の地方都市で、ギターを弾いたり、エッセイを書いたりして暮らす、といった夢だ。小林さんはそのような夢を実践されたのだ。それとは別の道を歩んだが、年もとってそんな冒険はできなくなった。でも音楽を通じてならいくらでもできる。
で、改めて小林さんのことを検索してみてびっくり。昨年(2016年2月)、お亡くなりになっていたのだ。まだ62歳だった。ピースボートなどでこの間までコンサートをされてきたとのこと。一度、生の演奏を聞いてみたかった。
続編の楽譜『中南米ギター名曲の旅②』も手に入れた。この演奏も聞きたかったが、こちらは残念ながらCDがなく、もう聞くことができない。
ギターの魅力を思い出させていただいた小林さん、改めてお礼を申し上げます。
そうしてギターを再開し、あれやこれや手を出したり引いたり。若いときと同様、挑戦中の曲ばかりたまり、一向に進歩がないが、独りで楽しんでいる。
小林さんの曲集は、「コンパルサ」「鐘つき鳥」「ラ・ゴロンドリーナ」などが弾けるようになったらいいなあと、時おり眺めたり挑戦したりしている。
レクオーナの「コンパルサ」〔2017年6月〕
小林さん編曲・演奏の「コンパルサ」は、キューバの音楽家、E・レクオーナの作品である。オリジナルはピアノ曲ということ。楽団やエレクトリックでも演奏され、クラギで弾かれることは少ないようだ。でも私は小林さんのCDの演奏でこの名曲に目覚めた。だからこれが “私にとってのオリジナル(原曲)”になっている。
✻「私にとってのオリジナル(原曲)」
多くの人にとっても、最初に聴いて好きになった曲は、そのときの演奏家と編曲が原点となり、それから切り離すことができないのではないだろうか。後から「こちらがオリジナル」とか「これが名演だ」とか言われても、やはり最初に刷り込まれたものへの愛着が消えず、そちらが「オリジナル(原曲)」となるのでは。― もっとも、いわゆる「カバー曲」というのは二次的な位置づけにあるのが当然だとは思うし、特にクラシック曲のポップ調変奏が幅をきかせていると、たいていは「よしてほしいなあ」と思う。― でも(これから書くことになるが)ギター編曲ではそう思わないので、勝手なものである。
(で、本論に戻ると)「コンパルサ」とは「祭りのパレード」のことらしい。この曲は、「復活祭のパレードがだんだん近づいてきて、また遠ざかっていく」(小林)、そういう情景を描いているとのこと。南米の青い空に浮かぶ丘の細い山道を、色とりどりの旗をもち、仮装した小隊が登ってきて、賑やかで素朴な音楽を奏でながら目の前を通り過ぎ、丘の向こうの村へと遠ざかって行く。小林さんの演奏を聞いていると、そんな映像が浮かんでくる。
しかしこの楽譜はなかなかの難曲だ。「トトトット、トット、トット、」 という独特のリズム伴奏がこの曲の命だが、これがパレードの舞踊と歩みを表しているのだろう、これを最初から最後まで絶やすことなく刻み、それにハイポジションの透き通るメロデーを載せていかねばならない。まるでデュエットを一人でやるような構成になっている。
この曲は2部構成になっている。前半はホ短調のやや哀しげな感じで、死者への葬送の道行きのようである。しかし後半はホ長調に転じ、道に陽射しがさし、山腹から頂上、そして空へと思いが飛翔していって、そのひととの出会いが復活するかのようである。この転調が実に素晴らしい。運指が分からないようなところもあり、ちょっと挑戦してはたちまち挫折している。
この曲を作ったエルネスト・レクオーナ(1895-1963)は、大戦間時代を中心に、バンドを率いて世界的に活動し、多くの名曲を残した。「シボネイ」は、竹内永和さんの素敵な編曲がある。「そよ風と私」も好きだ(ギター楽譜がなかなか見つからず、自分でコード伴奏をつけてみた)。ほんとうにいい曲を残してくれた人です。
追記:「コンパルサ」はその後、MANUEL BARRUECOという人のアレンジ譜を発見
(フリー・スコアで見れる)。こちらもいい編曲だが、難しいことには変わりない。
〔2020年5月〕