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ピアソラ賛歌

ボカの石畳

ギタノート 7


 西欧によるアメリカ大陸への進出は、北米と中南米でかなり異なる歴史をたどった。その違いは、時代や風土もあるが、民族の違いが大きかった。特に音楽は民族性が反映される。北米はアングロサクソン系が中心となり、これにアフリカ系が加わってジャズなどを生んだ。中南米はラテン系が中心で、それにインディオやアフリカ系の血が混交し、複雑な地形と風土を背景に多様な流れになった。キューバではレゲエやサルサ、ブラジルではサンバやボサノバ、アルゼンチンではタンゴといった民族音楽が生まれた。

 南北アメリカは、北はガーシュイン、南はピアソラという、巨大なヨーロッパの音楽に負けない「新世界」の音楽を切り開いた。

 ピアソラは「南米のパリ」と呼ばれたブエノスアイレスを拠点にグローバルな規模で活動した。様々な音楽家グループを生みながら発展していた土着のタンゴに、西欧のバロック音楽(特にバッハ)の古典的伝統、ニューヨークやパリのジャズと現代音楽など、さまざまな手法を大胆に織り交ぜ、減衰期のアルゼンチン・タンゴに新しい魂を吹き込んだ。
 (※ このあたりについては、“TANGO GLELIO”の素晴らしい記事を参考にさせていただいた。)

 ガーシュインが、ヨーロッパからニューヨークに入った白人の、都会的で純粋培養の香りがするのに比べ、ピアソラには、南米で生まれた土着の混血のエネルギーと、ヨーロッパの伝統やアメリカのモダンまで取り込んだ、幾重もの濃厚な香りが感じられる。

 私がピアソラを知ったのは主にギターからだった。それまで彼のタンゴ曲を聞いたことはあっても、耳を素通りしていた気がする。この偉大な音楽家の活動期と同時代にいたのに、真価を知るのは死後ずいぶん経ってから、しかもリバイバルブームさえ終わってからだ。

(流行が終わってからハマる傾向があるのは昔からだ。ロングランが終わって俳優も舞台を去り、劇場が記念館となった頃、のこのこやってきてパンフレットを拾う。古書店で本やCDを買って初めて感動し、収集を始める。作者はもう世にいないことも多い。感動を当人に伝えられないのは残念な気もするが、まだ健在な人にもそうしない。「作品」があればそれでいいとも思う。歴史や考古学、古生物学や天文学なども好きだが、遠くから眺めるものが多い。)」

 ともかくピアソラを知ったのもはブームが去ってからだが、それでも真価を理解しているとはとても言えないだろう。オリジナルである彼自身のバンドネオンと楽団の演奏より、アレンジされたギター曲の方がいいとさえ思っている。

 ピアソラは、ただ聞くだけでなく、楽譜を手に入れて演奏に挑戦したとき、その奥深さに触れた気がした。メロディーもリズムも和音も、すべてが斬新なことに改めて驚く。奇妙で不思議な展開だ(古典ギターには出て来そうにない)と思うものも、やがて、これしかないと納得させられる。そうした独自性や意外性に満ちているが、高踏的で難解というより、庶民的な情感をたっぷり歌い、ポップ(歌謡曲調)になるのもためらわない。世界に広く目を向け、様々な実験的手法を取り入れながら、その魂は、故郷の港町に息づくアルゼンチン・タンゴなのだ。


 こうした魅力が、アレンジされたギターでも十分に発揮されている。これはむろんアレンジャー(編曲者)や演奏者の力量でもある。
 例えばブエノスアイレスの冬』。この曲は福田進一さんの素晴らしい演奏で知っていたが(名アルバム “JONGO” )、数年前に楽譜を手に入れた。編曲はセルジオ・アサド(この編曲はほとんど作曲に近い偉大な仕事ではないかと思う)。予想通り私にはまるで歯が立たない難曲だが、この譜読みで改めてピアソラのすごさ、そして編曲者のアサドや演奏者の福田さんの偉大さも知った。

 譜読みはいつも楽しい。楽譜を解読し、指の配置に変え(自分なりの運指をあれこれと試し)、音にする。速さをうんと落とし、1小節、1小節と、あるべき曲の頂きに向かって歩んで行く(登山やクライミングとはこんな感じか)。弾けても弾けなくても、出来栄えにかかわらず、曲と楽譜は、いつも美しい山のようにそこにある。できないところは頭の中で弾く。何年たっても同じところに戻っては再出発で、若い時のようには進歩しない。でもこうした作業は、作曲者(編曲者)とその創作の現場に居合わせているような、至福の時である。 

 ピアソラのギター・ソロ・オリジナルは(わずか)6曲らしく、そう多くないが、アレンジされたものは結構たくさんある。だがどれもかなり難しい。ピアソラのあの原曲の厚みを、特にバンドネオンという楽器の複雑な構成を、僅か5本の指でしか弾けないギターで再現するのが大変だからだろう。でも弾いてみたい曲がいっぱいある。

〔続く〕

〔2020年9月〕