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トロイロとアリアスの「スール(南)」― ノスタルジーとユートピア

ポンページャ


ギタノート 10

プロローグ/

  アルゼンチンタンゴの名曲:『スール(南)』(ギターアレンジ版)について。

 これもビラダンゴスの名盤『タンゴ・アルゼンティーノ』で知った。だがこの曲については作曲者がアニバル・トロイロという人であること以外、何も知らなかった。美しい抒情的なメロディとビラダンゴスの名演奏、そして「南」という素晴らしいタイトルで、“まだ見ぬ南国の理想郷への憧れ“、”かつて暮らした南の故郷へのノスタルジー”のようなものを自由に想像しながら聞き、それで十分だった。 

 このギター譜を偶然ネットで見つけた。アレンジャーのアニバル・アリアスが楽譜を公開してくれていたのだ。少し調べてみるとこの曲とその名「南」は、アルゼンチンタンゴにとってだけでなく、アルゼンチンの人々にとって、南十字星のような輝きをもっていたらしい。そしてこの曲のエピソードを辿っていくと、小さな窓から覗くように、地球の裏側のアルゼンチンや南米の歴史も見えてくる。私が何も知らぬまま漠然と描いていた「南」へのユートピアとノスタルジーは、この曲の魂でもあったようだ。
 

トロイロとマンシ、映画とピアソラ

『スール(南)』という曲について、まず以下の簡明な解説を引用させていただく。

 1948年にアニバル・トロイロ作曲、オメロ・マンシ作詞の、当時としては画期的な近代タンゴ。タイトルの「スール」は、ブエノスアイレスの南地区を指しており、リアチェロ川界隈のポンページャ地区を詩的に綴りながら失せた恋を重ねるという下町抒情歌です。「古いサンファンとボエド通り、一面の空、ポンページャ、」、「スール、その先に酒場の灯り」、そして一つの恋物語が終わり、「死んでしまった苦き夢」とノスタルジックに結んでいます。

✻「港町のカフェテリア」より 

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Wikipediaより

 作曲者:アニバル・トロイロは、アルゼンチンタンゴの第一の黄金時代(1930年代)、若手演奏家の一人として登場した。タンゴの新星:カルロス・ガルデルが広めた「歌タンゴ」を引き継いで発展させ(ガルデルは1935年事故死)、第二の黄金時代の1950年代には、タンゴでは後退していたギターの役割も復活させ(ギター名手:ロベルト・グレラとのタンゴ四重奏団)、様々な楽団の奏法を幅広く実験的に総合し、70年代まで長く活動し、国民から広く愛された。

 作詞家:オメロ・マンシは、トロイロより少し年上で、反体制的な知識人、詩人として、タンゴのために多くの詩を書いたが、この曲が発表された4年後に40代の若さで亡くなった。

 『スール』の歌詞はマンシの青春時代へのノスタルジーだが、それはタンゴが生まれた町角(ブエノスアイレスのリアチェロ川沿い)や、その向こうに広がる牧草原へのノスタルジーでもある。トロイロとともに名曲となったこの曲は、マンシの死後もアルゼンチンの人々のノスタルジーとして歌い継がれた。

 そしてトロイロも世を去って13年後、アルゼンチンタンゴに三度目の黄金期を画したピアソラが加わり、フェルナンド・ソラーナスが『スール(南)』の世界をスクリーンに蘇らせた。ガルデルの死の翌年(1936年)に生まれた映画監督:ソラーナスは、独裁政権と戦い、パリに亡命していたが、帰国後、『タンゴ  ガルデルの亡命』(1985)、『スール、その先は愛…』(1988)で国際的な映画賞を受賞した。
(今年の7月に新型コロナでパリで逝去。)

 以下を引用させていただく。

『スール』は、フェルナンド・E・ソラナス監督の1988年の映画『スール/その先は…愛』の劇中曲。ピアソラが音楽担当。トロイロの歌曲も多数取り上げる。
 「南へ帰ろう」は「スール」の冒頭歌詞。「タンゴにおける「南」のイメージ。なつかしく、少し寂しげで、自分がいつか帰る場所・・・まさに下町で生まれたタンゴの原風景です。この「南に帰ろう」や、映画の中にちりばめられたピアソラの音楽は、さながらトロイロの作品に対して長い時を経て返された返答のように思います。晩年に差しかかり、長いタンゴ革命の闘争も終わり、ピアソラもまたどこかに回帰していく思いはあったのではないでしょうか?」
 ✻『南へ帰ろう』ピアソラと映画/米坂ギター教室、より

   「スール」は私たちに、再会と友情について語りかけてくれる。それは、死に対する生の勝利であり、遺恨に対する愛の、抑圧に対する自由の、恐怖に対する願望の勝利なのである。だから、これは帰還の歴史なのである。また『スール」は、わがどもりの人間のように「ノー!」と言うことを知っていたすべての人々へのオマージュであることを表明しておきたい。」(ソラーナス監督)
 これは、アルゼンチン人なら誰もが愛する名曲である。歌謡という概念よりは、文化的アイデンティティを示す、アルゼンチン人の誇り、精神的支柱とさえ言うべき歌なのである。クーデターで国を追われた芸術家や文化人たちが異国の地で、この曲に触れながら涙したというほどに、そこに流れる詩情、風景、哲学、すべてがアルゼンチンの「心」を表現している曲だ。

✻ 映画『スール その先は…愛』での至高のタンゴ人たちとアルゼンチンの歴史背景:本田健治、より

 この映画が作られたのは1988年だから、トロイロの『スール』から40年経っている。
その時代を生きた人も老い、また世を去り、その歌を知らない世代も増えていたろう。けれどもそのあいだアルゼンチンは、冷戦による米ソの干渉、クーデター、フォークランド紛争、弾圧や追放など、国家と暴力装置の支配がやむことはなかった。マンシとトロイロが歌った「南へのノスタルジー」は、作られたときのまま封印されていたかのようだ。

ノスタルジーユートピア

 「スール」が歌う「南」の世界は、地理的にも歴史的にも、アルゼンチンタンゴだけでなく、アルゼンチンの人々の源郷でもある。そこに込められたドラマや歴史はとても複雑だ。

 16世紀から17世紀にかけ、ヨーロッパ移民が苦難の旅ののちにたどり着き、拓いた地の果ての港まち。店や宿や酒場が立ち並び、船乗りや牧童や商人、様々な国の人々が集まり、いかがわしさにも満ちていたが、強権的な政府や軍の管理もまだなく、人間臭いドラマが渦巻いていた町だ。

 その後アルゼンチンは「欧州の穀物庫」へと発展し、19世紀末には近代国家となる(日本と同時期か、より早いくらいだ)。ブエノスアイレスは「南米のパリ」と称され、1920年代から30年代には文化も成熟し、タンゴも黄金時代を迎える。しかし他方で国家と軍部も拡大し、世界大戦時代の全体主義的な管理国家の暗影も広がっていく(日本の大正から昭和の歴史とよく似ている)。
 
 狂乱の世界大戦が終わり、戦後世界には平和が訪れた。しかしそれは他方で「冷戦」という新たな準戦時体制の始まりでもあった。「鉄のカーテン」が下りた西欧だけではなく、宗主国ヨーロッパが後退したすべての地域で、米ソを中心とした新たなパワーポリティクスが展開した。ソ連と共産圏だけでなく、アメリカと自由主義圏の方も、軍事力を背景とした準植民地ともいえる政策を推進した(中南米アメリカにとって絶対に共産化されてはならない地域だった)。「第三世界」と呼ばれたアフリカやアジアや南米は、近代の歴史が浅く、西欧の植民地として長く搾取されていた。その地域にとって戦後の「民族自決」と「独立国家」は新たなユートピアだった。しかしそれは「国家」という新たな枠組みが、自立していたローカルを飲み込み、その国家がさらに米ソという超大国の論理に飲み込まれるという、別の“ディストピア”でもあった。
 
 だがそれは「近代(modern times)」という時代の普遍的な宿命、功罪でもある。
 旧い封建的な圧政を脱し、国と故郷を捨て、大海原を旅し、草原を開拓していった時代。家庭を作り、土着の人々と和解し、様々な民族も加わって港や牧場や町を建設し、家庭や酒場で手を取り合って踊った時代。国境のない、冒険の日々と牧歌的な暮らしの、自由な時代。その記憶が生きたまま、発展していく国と都市が活気に満ち、輝いていたあの時代も、いつしか遠くなり、歴史の彼方に消えて行ってしまったのか。

 いやその世界は『スール』という曲の中に残っている。ここには、この曲を作り、それを愛したアルゼンチンの人々や祖先の開拓者たちが生きている。それは夜空に輝く南十字星のように、牧歌的な故郷と自由な世界へのノスタルジーユートピアを指し示し、歌っている。

 時代は過ぎ去り、そこにいた人々も世を去った。こうした人々と国と歴史について忘れてしまっても、あるいは何も知らなくても、曲の命は変わらない。最初に、何も知らないまま聞いた時の感動は変わらない。音楽や芸術とはそのようなものだ。

〔2020年12月〕